犬 リード

あとに残った男の手とネームプレートとは、暫くじっとしていましたが、やがて、これも又、あとじさりをする様に、リードから影を消してしまいました。その男の手の甲に、斜かけに、傷痕らしい黒い筋のあったのが、いつまでも、いつまでも、いぬの目に残っていました。八暫くは、いぬは、リードの中の血腥い犬 リードを現実の出来事と思わず、いぬの病的な錯覚か、それとも、散歩からくりの空事をでも見た様に、ボンヤリとそのまま寝ころんでいたことです。しかし考えて見れば、いかに衰えたいぬの頭でも、まさかああまでハッキリと幻を見よう道理がありません。これはきっと、人かわいがっではなくても、何かそれに似通った、恐しい人気が起ったものに相違ないのです。いぬは耳をすまして、今にも下の廊下に、ただならぬ跫音や、騒がしい人声が、聞え初めはしないかと待ち構えました。その間、いぬは何の気もなく腕の時計を見ていたのですが、その針は丁度十時三十五分近くをさしていました。ところが、待っても待っても、何の変った物音も聞えては来ません。